その日、飼い主が向かった先は『あの』気に喰わないネコの居る場所だった。
どうにも澄ました所のある、見るからに苛々とさせる存在。
普通、ネコは自分を見て警戒を露にするもの。
まして吼えてみせれば、大抵はビクリとして恐れ戦く。
それなのに!?
・・・気に喰わない!
俺は主人の腕の中からソイツの方を睨み見やった。
以前に一度だけ訪れた事のある室内、そのソファーの上でジッと自分を見据えているソイツの目には、静かな闘志が灯って見えた。
・・・俺と張り合おうとでもいうのか?
異型なるその存在に、自然と嘲る気持ちが沸き起こる。
細い足、小さな口、まぁ、動きはすばしっこいのかもしれないが、所詮はネコだ。
馬鹿なヤツめ。
俺はそう思っていた。
自分を見る人間は、大体が『素敵ね!』とか『可愛い!』とか言って撫でてくれる。
当然血統書というものがあり、特別な血筋なんだとか、飼い主も時折自慢げに口にする。
『お前の母親は、ドッグショーにて何度か優勝したことのある凄い犬なんだぜ!』
ソレ(ドッグショー)が何なのか詳しくは知らないが、恐らくその血を受け継いだ俺は特別な存在なのであろう。
そんなこんなで、自分は満足のいく暮らしを送ってきた。
だが最近、何とはなしにそれが狂ってきている。
原因は、飼い主の不調であろう。
今までは、毛並みの為にと特別な食事を用意されていた。
それが最近、妙に手抜きをされているようで、匂いはそれなりなのだが、食べてみるとカリカリパサパサ。
明らかに質が低下してきている!
これ正に怠慢!
好い加減にしろ!と、俺は口を大にして叫んでいるものの、当の主人は迷走を続けて居るらしい。
どうにも此方の様子を気にかけていない!
そして今日に至っては、程好い眠りに入りかけていた俺を抱きかかえると、この気に食わないネコの居る部屋へといきなり連れてきてだ!
・・・ああ、ったく!むしゃくしゃする!
俺はガリガリとオヤツ用ガムをかじりながら、苛々する気持ちを何とか抑えていた。
先程、喧嘩をかってきたあのネコを、体良く痛めつけてやろうと思っていたのに、飼い主は寸でて留めてきたりもしてだ!
これに納得は出来なかったものの、とりあえず(己のテリトリー内では無い為)引き下がってやったのだが・・・?
・・・いつまでこんな所に居るつもりなんだ!?
中々帰ろうとしない飼い主に、再び苛々が募りだす。
そもそも、何をしにこんな所にやってきたんだか?
見やった飼い主の様子は、どうにもこうにも釈然としない。
その情けなさに、込み上げてくる不満。
更にふと感じられた一つの視線、それを辿り行けばあの邪なネコが居てだ!
・・・鬱陶しい!
俺はその視線を跳ね除けた。
だが珍しくも声をかけてきたソイツに、俺の苛々は最高潮に達して・・・。
しかし此処でネコの飼い主が取り出してきた物!
その奇妙に走り回る物体に、思わず目が惹き寄せられた!
・・・あれは何だったのだろう?
ちょこまかと変な音を立てながら動き回るその物体、そしてその後をひょこひょことついて回っていたあのネコ。
見た事も無い物体に好奇心と、それから無様なネコの動きに笑みが込み上げた。
そして気が付けば走りだしていた俺は、ほくそ笑みつつ、やがて獲物を拿捕したのだが?
・・・アイツのあの様は何だったんだか!?
勝ち誇り、『どうだ!』とばかりに見やった視界の先、其処にはあらぬ方向を向いた黒ネコがいた。
しかもいつの間にであろうか、もう一匹新たなネコが出現してもいて。
何より驚いたのは、目にしたソイツの横顔にだった。
それまでただただ気障で済まし顔をしていた黒ネコが、まるで別物の如く微笑んでいたから!
これに俺は唖然となり、訳が分からず立ち尽くしたのだ。
あの日から数日。
俺はリビングに敷かれた専用マットの上で寝そべりつつ、再び思い遣る。
あれは果たして何だったのか・・・?
自分が目にした黒ネコ、あれは同一の存在であったのかどうか?
すっかり俺の存在など忘れたかの如く、金色のネコと話をしていた、あの時の表情が、自分だ意識の中に衝撃となって残っている。
何と表現したら良いのか、とにかくふやけた顔つきをしていたのは確かだった。
それまでムカつくほどに澄ました顔をしていたというのに、其処には屈託の無い笑みを浮かべたソイツが居てだ!
要因を考えるとしたらば、恐らくあそこに現れたもう一匹のネコにあるのだろう。
くるんとした丸い煌く双眸をしていた、小柄な奴。
多分メスであろう、黒ネコとの体格差からしてそう思えた。
そしてアイツはあのメス猫の事を・・・?
此処でひとつ吐息をつくと、首を捻った。
そして呆れと不可解さの入り混じった眼差しで、俺はリビング内で携帯をいじっている飼い主を見つめた。
そうだ、同じくこの男もここ最近ずっと可笑しいままなのだ。
まぁ多少穏やかさを取り戻した感はあるものの、今日はまた妙に浮き足立っている。
原因はというと、あのネコ同様、ある存在に意識を奪われているからだ!
『聞けよイザーク!ミリアリアがついに俺の誘いに乗ってくれたんだぜ!』
つい先日、キラとかいう奴がミリアリアのメールアドレス教えてくれたおかげだ、とかなんとか嬉しそうに話していたが・・・。
今日がその約束の日らしい。
全く、何なんだか!?
あのネコといいコイツと言い、どうしてこんな風になってしまうんだ?
俺は何度目かになる呟きを胸に落とした。
しかし・・・残念な事に、ここ数日の体調が一気に悪化。
朝から多少咳き込んでいたアイツは、朝食後、急にベッドに突っ伏してしまった。
『よりにもよって・・・』と気だるげな声で呟くと、大きくまた咳き込んで。
『ちくしょう』と悪態をつきつつ、主人は熱気の篭った眼差しで携帯を操作していた。
恐らく、一緒に出かける筈だった相手・・・ミリアリアとやらに連絡をしたのだろう。
「きっと、呆れただろうな。」
それから数分後、携帯をジッと見つめていた飼い主は、床にいる俺を見やり小さく口元を緩めそう言った。
「こっちから誘っておいて、ドタキャンだなんてな。」
『どうせ本気じゃなかったんでしょ』とか、後で言われるのかもな。
呟くソイツの顔つきは軽く、だがどこか自嘲めいたモノを感じさせた。
だから、俺は『黙れ!』と一吼えしてやる。
何をぶつくさ言っているのだか?
愚痴ったところで、状況が変わるわけじゃない!
今はとにかく体を休めて、それから色々と考えれば良かろう!
だが俺の一吼えをどう取ったのか、主人は『ハハ』と乾いたように笑うと、『だよな』と短く呟いた。
「本当、ツイテ無いぜ。」
体調も相まってだろう、自虐的思考。
これにムッとなり、俺は顔を覆っている主人の腕にカプリと軽く噛み付いてやった。
いい加減にしろよ!?
そしてキャンキャンと五月蝿く啼いてみせた。
すると『オイオイ?』と主人は俺を見やり、そして『分かった、分かったから』と言う。
「後でちゃんとご飯はやるから。それまでごめんな?ちょっと寝させてくれ。」
・・・違う!
「ん?って何だ?ああ、もしかしてオヤツが欲しいのか?」
・・・そうじゃない!
だから、どうしてお前は分からないんだ!?
全くもってちぐはぐな飼い主の捉え方に、苛々は込み上げてくる一方。
そして怒りついでに、辛そうにベッドに寝転んでいる主人の上へと飛び乗ってやろうかと、そんな風に思いやったその時だった。
不意に玄関チャイムが鳴り、俺も主人も驚きに目を見開く。
「こんな時に・・・誰だよ。」
そしてしんどそうに顔を顰めつつ、主人はゆっくりと身を起こした。
寒気がするのだろう、ブルリと一震えした後、のっそりとベッドから床に降り立つ。
俺はそんな主人の足元にソッと付き従いながら、玄関モニターがある場所まで向かっていった。
「って・・・え?」
だがモニター画面を目にした途端、何故だろう、主人は見事に直立していた。
そして『何で・・・』と呟くと、震える指を画面へと伸ばしていく。
「は・・・い。」
声は掠れ、途切れていた。
主人のその様に、俺は眉を潜める。
『あ、あの・・・私。ミリアリアだけれど。』
「・・・。」
これに当初は画面を見つめ、立ち尽くしていた主人。
だがややあって『ちょっと待ってろ』と呟くと、玄関へと向かい慌てて動いていった。
カチャリと開放したドアの向こう側には、凜と小さく立つヒトが一人。
「って、どうした・・・?」
「あ・・・っと、キラに貴方の住所を聞いて。それで・・・突然にごめんなさい。」
「今日、無理って、さっきメールで・・・。」
「うん。ちゃんと届いた。でも・・・。」
玄関先の奴はそう言うと、ソッと主人を見つめた。
これに主人は軽く首を傾げ、だが直ぐにゴホゴホと咳き込んだ。
「大丈夫、なの?」
「ん・・・まぁな。」
だがそう言ってから、またゴホゴホと咳き込む。
これに客は心配気にその顔を覗き込んできて。
「酷い咳ね。」
「ん・・・。」
「その、一応適当に林檎とか果物の缶詰とか買って来たんだけれど。」
そして手にしていたビニール袋を軽く持ち上げ、主人へと捧げた。
すると主人はその目を見開き、袋を見やった後、客の方をジッと見やる。
「あ、ありがとな・・・。」
これに礼を述べつつ、主人が袋を受け取ろうとしたらばだった。
「本当に、風邪引いてたんだ。」
「え?」
微かな呟きに、主人は手を止め首を傾げる。
「ううん。何でもない。いきなりで、本当にごめんね!」
「・・・ミリアリア?」
そしていきなり謝ってきた客に、訳が分からず顔を顰めた。
するとそんな主人を見やった後、ソイツはフッと表情を緩めて。
「風邪、早く治しなさいよ?」
「って・・・あ、あぁ。」
「季節外れの風邪は性質が悪いっていうし、しっかり身体休めなさいよね!」
これに主人が沈黙。
一方的な会話の流れに、どう対応しようか迷ったのだろう。
だが同じく沈黙した客を前に、やがてペースを取り戻したらしい。
「あのさ・・・じゃあ、しっかりと風邪を治す為にもさ。」
「え・・・?」
「買ってきてもらって言うのも難なんだけれど、林檎・・・剥いてくれない?」
俺、剥くの苦手だから・・・。
これまた唐突に告げた主人に、客の目が瞬いた。
そして何とも言えない空気が辺りに漂う。
俺はそんな両者を交互に見やった。
「いきなり、何甘えて・・・!」
「駄目か?」
躊躇う客、そして微笑んだ主人。
そして『まぁ、無理にとは言わないけれど』と告げると、再びゴホゴホと咳き込んだ。
「大丈夫だって。疚しい気持ちは一切無し。単にそう・・・もう少し一緒に居たいだけだから。」
「っ・・・ディアッカ。」
「流石の俺も、この状態で女を襲う気になんてなれませんて。」
「っ!?」
最後の一言にギョッとその目を大きくした客だったが、やがてフッと顔を緩めるとだった。
「何を言っているんだか!」
そう言いながらも、玄関ドアを大きく開き誘う主人の方へとゆっくりと身を近づけてきたのだ。
俺はそんな目の前の男女に目を細める。
もしかすると・・・この女は最近飼い主の思考を混乱させていた張本人であろうか?
今までの遣り取りと彼女名前、そして背後から見つめる主人の眼差しにそう思い至る。
だが、ならば此処で易々とテリトリー内に入らせてしまったら不味いだろう?
そう、まるであの時のあの黒ネコのように、主人が周りの事など目に入らない状態になってしまったらだ!
・・・困る!いや、断然困る!
そのように判断した俺は、玄関へと侵入してきた女に向かいけたたましく吼えてやろうとしたのだ・・・が?
当の女は玄関口で俺を見つけると、ゆっくりと腰を落としてきた。
そして『犬、飼ってたんだ』と主人に向かい述べると、ソッと俺へと片手を伸ばしてきてだ。
「可愛い!」
ジッと俺の目を見つめ、話しかけてきたソイツ。
「綺麗だし、凄く賢そうな仔ね。」
そのまんざらでもない批評に『フン!』と大きく鼻を鳴らしつつも、俺はとりあえず客の手の匂いを嗅いでみた。
途端にフワリと鼻に香ってきたのは、シャボンの匂いとそれから・・・?
「イザーク、退けよ?其処に居たらミリアリアが通れないだろ?」
だがこの粗野な主人の言葉に、俺は『何だと!?』と顔を顰める。
退けとは何だ!退けとは!
そして不満を露に、主人を見やればだった。
其処には玄関にて靴を脱ぐ客へとばかり、強く意識を向けている男が一人。
あの黒ネコ同様、どうやら既に俺という存在を意識の中から忘れ去っているようである。
・・・貴っ様ぁ・・・!
大きく苛立った胸の内。
だがそんな俺を抑えたのは、他でもない、侵入者として排除しようと思っていた客の方であった!
「大丈夫よ、イザーク?貴方は退かなくても通れるから。」
靴を脱ぎ終えたらしい彼女は、柔らかな声で自分を見つめそう言ったのだ。
この対応に、『フム!』となるこの胸。
そしてささくれ立っていた気持ちを抑え、俺はそんな彼女をジッと見つめながら思う。
・・・まぁ良いだろう!
全てが良しとは言えないが、少なくともこの客に対する警戒心は解いてやろうと思った。
何より先程嗅いだ手の匂い、そこには実に優しく、そして心地が良い犬の匂いがしていたのだから!
この客は、自分を邪険にはしないだろう!
そう、恐らく自分のように誰か(イヌ)と暮らしているのかもしれないと、そんな予感がして。
ただ問題なのは・・・。
・・・心此処に在らずな主人(オス)の方が曲者か。
妙に浮かれ気味な男・・・先程まで、あんなにも後ろ向きな事を口走っていたというのにだ・・・を遠目にしつつ、俺は玄関の冷たいフローリングの上にソッと身を伏せた。
俺はああはなりたくないな!と、そんな風に思いながら。
――彼の苦悩はまだしばらく続く・・・。
~Episode of a dog 完~
[26回]