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02/11/03:00  ノクターン

自邸に戻り、既に眠りこけている息子の寝顔を確認した後、寝室へと向かった。
上着をソファーの端へ放ると、ボタンを外し襟元を寛げる。
今日は久々にアルコールを入れた所為だろう、頭がボウッとする。
ぐてんと背もたれに身を預け、片手で額を小突いた。
少し飲み過ぎたかもしれない。
同席していたムウ氏の所為で、ついつい加減を忘れてしまったらしい。
『時には羽目を外すのも大事って事さ!』
陽気にそう話していた彼の様が、今も脳裏に蘇ってくる。
まったくあの人は・・・。
『たまには遊んでおかないと!気付いたら眉間から皺が取れない、そんな典型的仕事人間になっちまうぞ?』
フウと熱い吐息をつき、アスランは両目を瞑る。
大きくのたまう彼を前に、自分は適当な言葉を返した気がする。
だがその頃には、既に酔い始めていたのだ。
    
  
    
其処は市街地の一角、軍敷地から程近い小じんまりとしたバーであり、ムウ氏が贔屓にしている店のようだった。
入って直ぐ、カウンターに居た女性・・・この店のママであろう、しっとりと艶やかな女性が『いらっしゃい!』と気さくに声をかけてきた。
これにムウ氏は『やあ』と声を返し、慣れた感じでカウンター席へと足を進めた。
「まあ!初めまして!」
緩やかに面前へと移動しつつ自分に挨拶をしてきた彼女に、ムウ氏は『好い男だろう?』と告げた。
途端にママと思しきその女性は、こちらを眺めるように見つめてきた。
最初に聞こえた『まあ!』という言葉からも分かる事、恐らく彼女は自分という存在を既に承知しているのだろう。
俺はやや畏まり軽く会釈をした。
すると彼女は『そうね』と呟くとだった。
「いつもので宜しい?」
微笑みを浮かべつつ、彼女は緩やかに背後にある棚へと向き直った。
出てきたのは、キープであろうウィスキーボトル。
それを流れるような手つきで、彼女は用意しだす。
大した驚きや深い詮索をするでもないその態度に、俺はホッとして腰を下ろした。
成程と思う。
カウンターと背後に数席だけ、モダンな造りをした空間内、何処かしっとりと落ち着いた雰囲気が漂っているこの店。
ムウ氏が贔屓にするのが分かる気がするな、と。
「まずは、お疲れさん!」
目の前に用意されたグラスを掲げ、彼は自分を見やった。
同じくグラスを掲げ、自分もそれに口づける。
芳しい琥珀色をした液体が軽く舌を焼き、乾き果てていた喉を濃く潤していった。
この一口が仕事の疲れを癒していくよう。
 「いつもご苦労様!」
そうして自分と彼との間に、コトンと置かれたチーズの盛り合わせ。
これはいつもよしなにして下さっているから、サービスよ!と口添えた女性に、ムウ氏は目を細め、それから微笑み『ありがとう』と告げた。
そのさりげないやり取りの中で、ふと感じたもの。
俺はムウ氏を見やり、それからカウンター内の女性を見やった。
自分たち以外に客は皆無。
店内は穏やかに、宵の口のような景色がしていた。

  
  
正直、疲れていた事は否めない。
最近の緊迫した政治事情を受けて、軍部内は紛糾。
本国に直接的な危機が迫っているわけではないものの、国家間での力関係、その均衡が破られる事になれば、将来的な悪影響が及ぶのは必至であろう。
混迷に乗じて、暗躍しようとする輩が居ないとも言い切れない。
そんな万が一の場合を想定して、軍部内は急務の対応を余儀なくされていた。
いつ変わるとも知れない情勢に、 この国の要たる彼女・・・己の妻であるその人も、事態の打開に奔走。
ここしばらく緊張状態が続いていたのだ。
そんな中、現地からの情報と、軍部が独自に仕入れた情報とを重ね合わせて、『一先ずは安心できるレベルまで落ち着いたようだ』という判断が下されたのが今日の午後。
ようやくといった事態に、軍部に詰めていた者等は一様に安堵、自分もまたホッとしながら帰途に着こうとしていた。
そしてそんな自分へと、飲みに行かないか?と彼は誘いをかけてきたのだ。



「しかしまあ、大変だったな。」
最初のグラスを空にしたところで、ムウ氏はポツリとそう呟いた。
軍部に拘束状態となって早10日、当初はいつ収束するのだか目途もつかない状況だった。
非常時にこそな役職ではあるが、やはり息のつけない日々が続くのは精神的に宜しくない。
部下を持つ者としての気負いもある。
「なんにせよ、平穏無事に解決出来たのは良かった。」
今回の一件について、彼は当たり障りのないように会話を続けた。
酒の勢いで下手な事を洩らしたりせぬよう、これは当然の事項である。
「と言っても、帰ったら帰ったでまた大変なんだろうがな。」
そして唐突にそう言って、ムウ氏は話題を変えた。
久々の帰宅、戻った先での光景を脳裏に浮かべているのだろう。
その顔にははにかんだような笑みが浮かんでいた。
「娘さんですか?」
自分の問いかけに、彼は答えるでもなくゆっくりとグラスに口を付けた。
だがその口元は緩んだままだ。 
「帰ったら真っ先に『抱っこ~!』とか言って飛びつかれそうだ。」
苦笑するその顔は、どこからどう見ても父親だ。
軍構内で見ている顔つきとは、180度違って見える。
その他人事ではない姿に、思わず苦笑を浮かべた。
「そっちは、確か・・・?」
彼の問いかけに、『まだ9か月です』と答える。
するとフッと息をつき、『そうか、まだ9か月か』と彼は復唱。
「そんな時期に、彼女もまた大変だったな。」
妻の事を言っているのだと、自分にはすぐに分かった。
出産後、2か月で職務に復帰。
あれから早9か月が経つが、首長として、そして母親としても、今の彼女は頑張っている。
そこに来て今回の一件だ。
急遽催された会談の為に、愛しい我が子を置いて海外へ発って行った。
『直ぐに戻る!その間、この子を頼むな!』
切ない顔つきでそう告げてきた彼女に、俺は大きく頷いてやった。
常に世界の中で忙しく立ち回っている彼女・・・カガリ。
 だが目的の為にならば、無理にでも頑張ってしまう、そういう奴だから!
『気を付けて!』
自分はそう言って彼女を送り出した。
息子の事、この国の事は俺に任せて、行って来い!と。
・・・後は無事に帰って来てくれればいい!
「夫婦共に忙しい身だし、苦労するよな?」
「ええ、まあ。」
脳裏に出立していった時の妻の姿を思い出し、俺はグラスに口を付けた。
もう間もなく帰国するであろう、その時を待ちどおしく思いながら。
「で、夫婦生活の方はどうなんだ?」
ここで唐突に問われた言葉、これに反応が遅れたのは仕方があるまい。
いきなり、かつその言葉が何を意味するのか、自分には上手く理解ができなくてだ。
「盛大な挙式から3年。子供も生まれて、順風満帆か?」
「それは・・・まあ。」
内心うろたえつつも、取り敢えず頷き肯定してみせた。
この手の質問は、時に無遠慮な聞き方をしてくる者達・・・それは記者等である・・・によって、不快な思いをする事が多々あり。
気づけば眉根を寄せていたらしい。
「やっぱり忙しいと、中々そういう営みもし難いよな?」
そんな風に呟かれ、俺は口篭った。
何故にこんな話題になっているのだかと、内心大きく疑問に思いながらだ。
すると彼はフッと苦笑を浮かべる。
「俺と君で、これぐらいの事隠し立てする間柄でもないだろう?」
「いや・・・ですが、こういう場所で、そういう事を聞くのは!」
「大丈夫だ!此処でならば安心して良い。コイツは決して、店で耳にしたことを外に洩らしたりしないから!」
そう言って、彼はカウンター内に立つ女性へと目を向けた。
途端に小さく口元を緩め、彼女もまたムウ氏を見やる。
その妙な信頼関係に、俺は思わず両目を細めた。
コイツと呼ぶ間柄。
彼とこの店のママとの間には、並々ならぬ付き合いがあるという事だろう。
俺は軽く顔を顰め、ムウ氏を見やった。
だがその横顔は至って平静。
  「もう一杯、如何かしら?」
此処で艶やかなママの声がして、僅かに意識が逸らされる。
そしてニッコリと微笑み、自分を見つめるその瞳に息を詰めた。
 「じゃあ・・・同じのをもう一杯。」
白く滑らかな手が、自分の目の前に置いてあったグラスを掴み持ち上げていく。
綺麗に手入れされた爪先が、キラリと濡れたように光って見えた。
感じるのは艶やかで芳しい、大人の女性の魅力。
・・・いやいや、考え過ぎだろう!
俺は至った予想を大きく振り払おうとした。
何しろ彼は奥さんと娘さんを溺愛しているのだ!
だから、そんな事があるわけがない!
ゆっくりとムウ氏を見やり、俺はそう自分に言い聞かせる。
其処にカランと軽やかな音が鳴り、新たな客の到来。
『あら、いらっしゃい!』というママの声を耳に、若い派手目な女性二人組が入ってくるのが目に入ったのだった。
   
   
   
   
   
2杯目のグラスに口をつける。
うまい具合にやってきた客のおかげで、生じた疑惑は意識の中へと沈んでいった。
とはいえ、消え去ったわけではない。
二人の姿を、まだ何処か懐疑的な思いで見つめていたと思う。
仕事でもプライベートでも、夫婦共に深い繋がりを持つムウ氏。
それがもし、万が一、自分が胸に抱いた疑惑の通り、このママと深い関係にあるとしたら?
掴んでいたグラスを煽り、生じた考えを一笑した。
そんな訳がない。
内心で強くそう念じ、俺は空いたグラスをテーブルへと戻した。
そして何気に腕の時計を確認する。
時刻は午後9時と45分を少し回っていた。
久々の帰邸、今夜は我が子とも再会出来る。
乳母であるマーナさん他、屋敷には優秀な侍女が居るから心配はしていないが、やはり心は一抹の不安を抱く。
映像にて、息子の元気な姿を確認してはいたものの、直に顔を合わせたその時、果たしてどんな反応されるだろうか?と。
人に囲まれ育ってきたおかげで、人見知りもなく、妻そっくりの快活な笑顔を振りまく子だ。
しかしある時、忙しさで2~3日程軍部に籠っていた自分は、帰邸して直ぐに対面した我が子に号泣された挙句、抱っこするのを拒否された事があったのだ!
『眠たかった事もあって、機嫌が悪かっただけだと思いますよ?』
マーナさんはそう言ってくれたが、並々ならぬ成長を遂げる乳児に於いて、その2~3日は2~3か月にも匹敵するのかもしれない!
やや大袈裟な捉え方かもしれないが、今回はあの時以上に家を空けていたのだ。
これはもう、どんな反応をされるやら、今から覚悟をしておいた方が良いかもしれない。
そして一人苦笑を浮かべ、目の前の空のグラスに目を向けた。
もう一杯だけ飲んだら帰るとしよう、そんな風に思いつつ。
だが直後、感じた視線!
これに俺はゆっくりと顔を回した。
すると先程この店にやってきたばかりの女性二人組、その一方が此方をジッと見つめているのに気付く。
知り合い・・・ではない、赤の他人の筈だが?
「君の事が気になるようだな。」
隣りから聞こえた声に、俺はゆっくりと顔を戻した。
「さっきから彼女、此方をずっと熱く見つめている。」
いつから気づいていたのか、ムウ氏の言葉に、俺は思わず動きを留めた。
それからもう一度、自然な素振りで女性を見やった。
すると微笑み、彼女は小さく片手を振ってきた。
 「どうする?」 
何処か面白そうな声音でそう言われ、思わず両目を細めた。
別に、どうするつもりもない。
結婚して以来、自然と人の視線はこの身に集まる。
それは国の代表であり、オーブの女獅子である彼女・・・カガリと結婚した、戦犯である元プラント評議会議長、パトリック・ザラの息子でありコーディネーターという、自分への好奇な眼差し。
彼女もまたそうであろうと、俺は半ばそう決めつけ、感じる視線に無頓着を装った。
何より、今晩は煩わしさから解放されたいと思っていたのだ。
そんな自分を横目で見やった後、ムウ氏は苦笑をしてテーブルに肘をついた。
俺は『もう一杯』とママに頼み、軽く息をつく。
だが直後に、事態は急展開を迎える。
しばらくして、カツンという靴音と共に、歩み寄ってきた気配。
「ご一緒しても宜しいですか?」
軽やかな声が耳に聞こえた。
見やれば、サラリとした長い髪を揺らして、自分を真っ直ぐに見つめる大きな瞳があった。
歳は自分よりも少し若いぐらいであろうか、赤い唇が鮮やかに目に映る。
一緒に居たもう一人も同様、その斜め後ろから微笑み此方を見つめていた。
何より目を惹いたのは、彼女たちの滑らかな体つきだ。
程よく空いた胸元、括れた腰、短いスカートからスラリと突き出た長い足。
その秀でたスタイルに、つい意識が逸れた。
これは本当についついだ!
しばらくずっと禁欲生活を送っていた事もあるし、何より疲れていた!
しかしそんな自分の反応を知ってか知らずか、彼女とその連れはニッコリと艶やかに微笑み、尚もこう問いかけてきた。
「アスラン様、ですよね?」
それまで穏やかであったこの場に、突然ギラリとした光を照らされたかのよう。
俺はハッとなり、彼女たちの真っ直ぐな目から視線を逸らした。
いや、その美しい造形をした女性達は、単に一緒に飲もうとしていただけなのかもしれない。
それでも、今晩の俺には疲れる対象でしかないと思えた。
特に、自分が何者であるかを気にする者とは、心地良く酒を飲めるとは思えない。
だから俺は端的にこう言い告げていた。
「すまないが・・・。」
断りの言葉を口にすれば、弾んでいた彼女たちの顔つきが一瞬で萎えていった。
そして最初に声をかけてきた者が『そんな事言わずに、一杯だけ!』と尚も食い下がる。
それでも『すまない』と述べれば、沈黙の後に拗ねたような声で『駄目ですか?』と切ない顔で言い募ってきた。
これに困り口籠った所で、カウンターの内からママが口を挟んでくれた。
「ごめんなさいね!今晩はお疲れなのよ。だから、遠慮して差し上げて?」
するとしばらくの後、彼女は酷く残念そうな顔で俺を見つめた後、『何よ!』と憤り背を向けた。
そして背後に居たもう一人もまた、『フン!』と鼻息荒く席へと戻って行く。
やがて荷物を掴むと、『ママ、お代ここに置いておくから!』と言い残し、二人は店から出て行った。
残されたのは妙な沈黙・・・。
「すみません。」
謝らなくてはならないだろうと、俺はママに向かい声をかけた。
自分の所為で他の客が帰ってしまったのだ。
すると艶やかに微笑み、彼女は『気にしないで?』と言ってくれた。
「きっと貴方を見て気持ちが昂っちゃったのね。」
そしてジッと俺の方を見やる。
いつもは陽気で良い子達なのよ、と付け足しながら。
「貴方が好い男過ぎるからだわ。」
茶目っ気たっぷりにそう言われて、俺は思わず口篭る。
そして肩を竦め、退避すべく顔を逸らせばだった。
「そういう反応がまた、女の気をそそるのよ?」
聞こえた声、これに手詰まりとなり、俺はグラスを煽ったのだ。
   
   
    

再び元の静けさが戻った店内、俺は新しい一杯をママに頼んだ。
流麗にアルコールを注ぐ彼女の姿を何気に見つめ、チラリと腕の時計に目を向ける。
思わぬ事が起こった所為で、帰ろうと思っていた機を逃してしまった。
余り遅くならないうちに・・・いや、乳児にとってはもう十分に遅い時間なのだが、それでも昼寝のし過ぎなどで起きている可能性もある。
そんな事を頭の片隅で思いつつ、新しいグラスを手にすると、 それに口を付けようとして・・・!
「君の意思の強さには脱帽だな。」
不意に聞こえた言葉、これに顔を向ける。
すると其処には、可笑しげなムウ氏の目があった。
彼は斜めに此方を見やり、ワザとらしく息をつくとだった。
「どうしたらあんな可愛い娘達のお願いを一蹴してしまえるんだか?」
見つめるその目にはからかうような光が点っていた。
だから俺は小さく吐息をつくと、『単にそういう気分ではなかったからですよ』と答えた。
すると彼は笑い、『まさかとは思うが』と前置きすると。
「実はあまり女性に興味が無いとか?」
この言葉に思わず噎せそうになった。
何を言うのだか!?
だがゆっくりと顔を上げ反論しようとした矢先、カウンター内から感じられた強い視線!
驚き目を向ければ、何故か其処には何故か自分をジッと見つめるママが居た。
そのやたらと熱い眼差しは、まるで何か迫るかのよう!
何なんだ!?
驚きと困惑で、一瞬頭の中が白くなった。
しかし直ぐに俺は気を取り直し、顔をムウ氏の方へと戻すとだった。
 「俺がそんな聖人めいた存在に見えますか?」
自分は至ってノーマル、当然女性に気を取られる事だってある!
とはいえ、それは普通の男としての反応であり、生理的所存だ。
まぁ確かに、先程は酷く無下な断り方をしたかもしれないが。
「先程の娘達は、その・・・一体どんな風に相手をしたら良いのだか、 考えるだにしんどいと思えたので。」
だから、あけすけながら断ったまでです。
そう返せば、彼はしばし無言となり、『フム』と独りごちた。
だが直ぐにニヤリと口端を上げるとだった。
「流石は准将。いつ何時も冷静かつ的確な判断だな。」 
「・・・。」
「そして軍部一のイケメン男ながら、密かに女泣かせと謳われているのもよく分かった!」
うんうんと一人頷くムウ氏に、俺は顔を顰めた。
誰が女泣かせだと?
内心突っ込みを入れたい気にはなったものの、此処は敢えて口は開かずにおいた。
下手に反応したところで、この人に口で勝てる気がしない。
いや寧ろ、妙な方向へと話が持っていかれそうだ。
だから手にしたグラスを口へと運び、この話題が流れゆくのを待とうとしたのだが?
「それだけモテながらも、妻一筋。これ正に夫の鑑だね。」
「・・・ムウさん?」
「まぁ、真面目な事は良いことだが、時には羽目を外すのも大事だぞ!」
酒の所為なのか何なのか、ほんのりと顔が熱い。
そんな彼の言葉を耳に、俺は軽く眉を潜めた。
「たまには遊んでおかないと!気付いたら眉間から皺が取れない、そんな典型的仕事人間になっちまうぞ!」
尚も彼はそんな事を口にして、そしてこうも続けた。
君は俺よりもまだまだ若いんだし、異性からの人気も高い!
仕事は仕事、家庭は家庭、割り切って行動してみるのも手だぞ!と。
そんな事を述べた彼に、俺は一瞬真顔になり、直ぐにフッと苦笑をしていた。
「確かに、貴方が言うように出来れば良いのかもしれないですけれど・・・。」
そう、自分は真面目だとよく言われる。
時に融通が利かず、自分自身の考えに籠ってしまう事も多々ある。
そして結婚後に被る事となった多くの視線、それらを上手く躱すのも、今だ至難の業である。
だから、そんな俺の事を気遣って発言してくれたのであろう。
『出来る事ならば浮気の一つでもしてみろよ!』という、これは男同士の軽口。
彼なりの冗談なのだと、俺には分かったから!
「けれど、何だ?」
ムウ氏が可笑しそうに此方を見やってきた。
これにやや間を置き、自分は答える。
「俺は・・・そう、今の状況に十分満足していますから!」
ハッキリとそう告げれば、彼は両目を細めた。
カランとグラスの中の氷が解け、琥珀色の液体がキラリと光った。
やがて『ふうん』と呟くと、ムウ氏はゆっくりと顔を落とした。
その口元に浮かんでいるのは、笑みだろうか。
「なら良い。」
短くそう言い、彼はグラスを口に運んだ。
軽い沈黙。
そして心地の良さが胸に沁みていく。
俺はそんな彼の横顔をチラリと見やり、そして口を開く。
「そう言う其方こそ、どうなんです?」
切り返してやれば、『ん?』と彼は此方を見やった。
よもや問い返されるとは思っていなかったらしい。
しばし両目を瞬くと、彼はゆっくりとカウンター内、グラスが並ぶ棚へと目を向けた。
だがその横顔はとても柔らかく、そして穏やかで。
「そうだな。俺も・・・今は、望むべき事は何も無いな。」
呟いた彼に、アスランはフッと息を吐いた。
過ぎてゆく時の中、共に巡り会うべく女生と出会った。
恐らくそういう事なのだろう。
「良かった。マリューさんの悲しむ姿は、もう見たく無いですからね。」
俺が思わずそう呟けばだった。
『お前なぁ』という声と共に彼は自分を見やり、フウと大きく吐息をついた。
だが目と目があえば互いに苦笑、手にしたグラスを合わせ、それを煽ったのだ。




この後、共にもう一杯飲んだところでだった。
「ムウさん?」
『ん?』と言って此方を向いたその顔は、やはり疲れの所為か、軽く酔いが回っている気がした。
これは丁度良い。
自分もそろそろ切り上げたいと思っていたのだ。
「今晩は、そろそろ・・・。」
帰りましょう?と言おうとして、だがこの刹那、聞こえたカツンという硬質な音。
見やれば、どういう事なのか、カウンターテーブルの上に真新しい酒が注がれたグラスが二つあった。
「宜しかったら如何?」
今日は良いワインが入ったのよ?
何故だろう、ここに来ていきなり新たな酒を出してきたママに目を瞠る。
しかし先程の一件もあって、率直に断り難い。
そんなこんなで、俺が口籠っていればだった。
「またお前は・・・そうやって帰そうとしないつもりか?」
テーブルに肘をつき、ムウ氏はジトリとした眼差しをカウンター内へと向けた。
そんな彼の眼差しを受けて、ニコリと艶やかに微笑むママ。
「あら、だって折角来て下さったのに、もう帰ってしまうだなんて・・・寂しいじゃない?」
それまでとは違い、少し甘えるような声音。
かつ、ムウ氏を見つめる彼女の眼差しは、やたらと深く滑らかで!
これに俺は息を呑み、瞠目する。
だがそんな自分に気づいたのだろう、ムウ氏はチラリと俺に目を向け、それから彼女に向き直るとだった。
「今晩はもう遅い。だから、もう帰るとするよ。」
「・・・。」
そしてママの目線を他所に、機敏に席を立つ。
俺は妙な感覚を胸に、彼に付随すべく腰を上げかけた。
だがそんな自分へと、ママはいきなりクルリと顔を向け、ニッコリと艶やかに微笑んできた!
「ならば、貴方だけでも・・・!」
そうしてソッと伸びてきた手が、自分の眼前へとグラスを差し出してきた。
何となくだが、それまでとは違うような彼女の目に戸惑いつつも、俺は軽く片手を翳し遠慮する。
 「悪いが、またな。」
この間に、ムウ氏は颯爽と勘定を済ませていた。
俺も立ち上がり、帰り支度を整える。
取り付く島もない自分達の雰囲気に、ママはしっかりと大きく溜息をついた。
「本当に、野暮な人ね。」
そして呟き、再び切なくムウ氏を見つめるとだった。
「今度来るときは、私の前で奥さんの話なんてしないでよ!」
去り際にそう述べた彼女へと、ムウ氏は苦笑のような顔つきを浮かべ、両肩を竦めたのだった。
 
 
    
その後、しっかりと辺りを包む夜の闇の中、俺はムウ氏と共に道を歩いていた。
だが堪えきれず、不意に口を開く。
店を出る直前に見聞きした店のママとの会話に、どうしても気持ちが強く引っ掛かりを覚えていたからだ。
「あの・・・ムウさん?」
直前に『妻一筋』と口にしていたというのに!?
あの店のママとは、一体どんな関係であるというのか!
だが彼は、気にしなくていいぞと小さく笑った。
そうは言われても、どうにも素直に引き下がる気になれず。
この目と耳で見て聞いてしまったのだ、しっかりとした弁解を得るまで引き下がれまい。
そんな風に思い遣った胸の内。
だが・・・!?
寝室のベッドの上、仰向けになりつつ目元に腕を乗っける。
帰邸するほんの少し前の事を思い出せば、自然と笑いが込み上げてきた。
そう、思い出してみれば、ムウ氏が『女性に興味が無いのでは?』と自分に述べたあの時!
見つめてきたママの眼差し、あれもそういう事だったのだろう!
『アイツは何処からどう見ても綺麗な女性に見える、けれど・・・!』
世の中は謎に満ち満ちている。
そして見抜け無いでいた自分に、今はただただ可笑しさが募った。
『中身は俺達と一緒。つまり、正真正銘の男ってことだ!』
 込み上げてくる苦笑と、それから良い感じで回っている酔いと、それからそれから・・・。
未だに、あのママが本当に男性であるのだろうかという思いもある。
だがムウ氏がわざわざ俺を誘い、飲みに向かった店なのだ、偽りではないだろう。
そう、きっときっと・・・!
そんな事を思いながら、意識が静かに沈み込んでいこうとした。
落ち着く自邸の匂いと雰囲気、それから目にした我が子の寝顔、それらに深い安心感を得ながら。
「今夜の事・・・話したら、きっと大笑いする・・・だろうな。」
そして今だ此処に足りない存在を思い、ソッと気怠く目を開けた。
夢の入り口はすぐ其処のようで、ぼんやりと景色が霞んで見える。
だが遠く壁際にある大きな窓、その上部に煌めき見える白金色の天体に笑みを浮かべた。
無事に、早く帰って来れるといいな。
ーーカガリ。
最後にそう思った後、意識は途切れていた。
 

 

トクトクトクと、彼の鼓動は軽やかなテンポを刻みながら・・・。

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